正直に言えば、リッジテールモニターが生き餌しか受け付けない事態は心配してた。個人的には困らないが、セロリ(ヒト)が餌を与えることができなくなってしまうので。もっともセロリも覚悟はあるからいざとなれば給餌するだろうが状況は好ましくない。
そういう心配をものともせず冷凍コオロギを元気に食べ続けるうなぎ(リッジテールモニター)である。
リッジテールモニターは英語ではRidge-tailed monitorと言われるが、別名はSpiny-tailed monitorという。実は我が家にはSpiny-tailed lizard もいて、まぁどちらも文字通りトゲオの名を冠した爬虫類である。
トゲオオオトカゲとトゲオアガマの2匹は、岩の隙間に隠れ、空気を目一杯吸い込んで体を膨らませることで外敵から引き摺り出させることを防ぐ習性も共通している。
つまり、噛まれにくい尻尾と引き摺り出されにくい構造が共通しているのだ。
これは収斂進化という違う種が似たような進化を遂げた結果である。
こうした収斂進化はSFやファンタジーではよく見られ、スターウォーズでもよくわからない生き物同士が言語を用いてコミュニケーションを取るのだが、これは文化の似通ったという意味で収斂進化と呼べるかも知れない。
アリやハチのような社会性は、実は人間とはまるで違う。
貴族社会はある意味ではアリやハチと近い社会性を保持していた。生まれつきの不平等がここには存在したし、貴族社会の反動の反動である共産主義の根底にこうした思想がある。
社会が個人に勝るという意味では。
現代社会は個人に重きを置き過ぎたせいで少なからず歪みが生まれている。少なくとも現在はこれよりも効率的な歪みを誰も見つけられていないが。
だから、日本のように全員が等しく不幸になっていくことは、増え過ぎた人口の下ではもっとも一般的な民主主義的社会性と言えるかもしれない。
「全員が平等」と「わたしだけが損をするのは嫌だ」の違いを説明できない以上、民主主義の下でヒトは平均的には不幸になることが避けられないのかも知れない。無論、これは人口が多過ぎるという現実があるからだ。
人口が十分に少ないうちはヒトは平均的に幸福になれるという考え方が民主主義の根底にある。つまり、現時点で民主主義の根底はとっくに崩壊していると言える。
地球上の人間の数はまだまだ増え続けるが、ヒトがアリのように慎ましやかな生活を送るならともかく、同重量のアリよりもずっと害悪的に振る舞うのだからどうしようもない。
わたしだけが不幸になるのは嫌だ、と全員が幸福を目指すことによって、この世界は人口に耐えられるほどのリソースがない故に全員が不幸になる。
ヒトは減るべきだろう。明らかに。
増え過ぎたシカを減らすようにヒトは減るべきである。
平等な世界で誰もヒトを減らすことはできないわけだし、だから不平等がよいというのは少なからず短絡的と言える。こうした事実の根源的な否定は難しい。
食糧供給が足りないなら供給する量を増やすよりも供給される側を減らす方が明らかに効率的だ。だから人間は増え過ぎたシカを減らす。オオカミの代わりに。
しかし、もうオオカミはいない。
オオカミはわたし自身以外ではあり得ない。わたしたちはシカであり、オオカミである。
シカでありオオカミであることが、人間の獲得した理性なのだとすれば、この現実に立ち向かうことが唯一民主主義の新しい形を生む道だろう。
くだらない話をした。たぶん酔っていた。そういうことにしておく。

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天使の羽みたいになりつつある背中の脱皮殻(フトアゴヒゲトカゲ)