レタス(クレステッドゲッコー)には2種類の日常がある。ビビリな日とビビリでない日だ。今朝はビビリでない日なのか、スマホに興味津々に近づいてきた。珍しいので動画を撮っていたらそのまま近づいてきて最後にはカメラレンズを舐めてきた。
ここまでスマホに寄ってくるのは初めてだ。普段は指に反応して近づいてくることはあるのだが、その場合はだいたい発情している風な調子なのだが、今日は単に興が乗ったという感じで愛らしい仕草であった。
その後はケージの入り口に堂々と構えて、どんなにカメラを近づけても逃げないので調子に乗ってたくさん写真を撮った。
ひょっとして仕事納め前のサービスだったのだろうか。年末である。

右からレタス

左からレタス
ところで、年末といえば大掃除だ。
アベンジャーズが世界を救う理由は、もはや地元のヒーローに商業的価値がなくなったからだが、構造的に長いスケールで映画を世界規模でドラマ化させたことにヒットの本質があるらしい。
構造的に優れた仕事がしたいとわたしは常々思っているのだが、実の所、それはあまり理解されない。
手間ひま、というものに一定の価値があると考えるヒトが意外と多いのだ。手間ひまと構造は相反するものではないが、それらもまた理解されない。
効率的であることと合理的であることの違いが分からないようだ。基本的に効率的であることは合理的だが、過度な効率重視は合理性を見失いがちであり、そもそも合理性を理解しない人たちが効率を求めるために、結果的にコストが押し上がることに気づいていない。
効率性というのは基本的にどのスパンで物事を考えるかという前提がある。より長いスパンでは合理と効率は漸近する。
例えば窓拭きを一回だけ効率的に行うなら汚れを落とすだけで十分だ。複数回効率的に行うならよい道具を揃えるべきかもしれない。複数年に渡って効率的に行うなら汚れを落とした後に、汚れがつきにくいようにケアすることで、より効率が上がる。しかもこれは合理的だ。
掃除は基本的には汚れを取り除く作業だが、実際には綺麗な状態を保ちたいという願望の産物だ。つまり、汚れにくいことは掃除の本質的な問題を解決してくれる策なのだ。それは次の掃除が効率的に行えることよりも重要である。
ただし、掃除というものを効率的にこなす上では、汚れにくくするためのコストが取り除くコストを大きく下回らない限りは余計な作業である。ここには窓を綺麗に保ちたいという本質が抜けているため合理性を失うことになる。
掃除の本質は汚れないことにある。などと会社の大掃除をしていて感じるわけだが、有象無象が集まる会社において掃除の合理性などという蒙昧な理想は誰からも理解されない。来年は自分ではないのだから、という短絡的思考が世の中の無駄を産み続ける。永遠に大掃除は「大」掃除のままである。
でも、実のところ、大掃除の本質は掃除でなく、みんなで同じ作業をするという儀式的要素にこそある。しかも掃除というのはそれなりに説得力のある方便だ。これが大運動会では賛否両論となるだろう。
ここまでスマホに寄ってくるのは初めてだ。普段は指に反応して近づいてくることはあるのだが、その場合はだいたい発情している風な調子なのだが、今日は単に興が乗ったという感じで愛らしい仕草であった。
その後はケージの入り口に堂々と構えて、どんなにカメラを近づけても逃げないので調子に乗ってたくさん写真を撮った。
ひょっとして仕事納め前のサービスだったのだろうか。年末である。

右からレタス

左からレタス
ところで、年末といえば大掃除だ。
アベンジャーズが世界を救う理由は、もはや地元のヒーローに商業的価値がなくなったからだが、構造的に長いスケールで映画を世界規模でドラマ化させたことにヒットの本質があるらしい。
構造的に優れた仕事がしたいとわたしは常々思っているのだが、実の所、それはあまり理解されない。
手間ひま、というものに一定の価値があると考えるヒトが意外と多いのだ。手間ひまと構造は相反するものではないが、それらもまた理解されない。
効率的であることと合理的であることの違いが分からないようだ。基本的に効率的であることは合理的だが、過度な効率重視は合理性を見失いがちであり、そもそも合理性を理解しない人たちが効率を求めるために、結果的にコストが押し上がることに気づいていない。
効率性というのは基本的にどのスパンで物事を考えるかという前提がある。より長いスパンでは合理と効率は漸近する。
例えば窓拭きを一回だけ効率的に行うなら汚れを落とすだけで十分だ。複数回効率的に行うならよい道具を揃えるべきかもしれない。複数年に渡って効率的に行うなら汚れを落とした後に、汚れがつきにくいようにケアすることで、より効率が上がる。しかもこれは合理的だ。
掃除は基本的には汚れを取り除く作業だが、実際には綺麗な状態を保ちたいという願望の産物だ。つまり、汚れにくいことは掃除の本質的な問題を解決してくれる策なのだ。それは次の掃除が効率的に行えることよりも重要である。
ただし、掃除というものを効率的にこなす上では、汚れにくくするためのコストが取り除くコストを大きく下回らない限りは余計な作業である。ここには窓を綺麗に保ちたいという本質が抜けているため合理性を失うことになる。
掃除の本質は汚れないことにある。などと会社の大掃除をしていて感じるわけだが、有象無象が集まる会社において掃除の合理性などという蒙昧な理想は誰からも理解されない。来年は自分ではないのだから、という短絡的思考が世の中の無駄を産み続ける。永遠に大掃除は「大」掃除のままである。
でも、実のところ、大掃除の本質は掃除でなく、みんなで同じ作業をするという儀式的要素にこそある。しかも掃除というのはそれなりに説得力のある方便だ。これが大運動会では賛否両論となるだろう。
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